小学生の作文1
うさぎの貯金箱 ----- 田牧恵理さん(小3)
クリスマスまであと一ヶ月というある日、わたしは友だちと家の中でかくれんぼをしていました。わたしが押し入れの中にかくれていると、シクシクとだれかが泣いている声がしました。ふりむくとそこには、うさぎの貯金箱がありました。思わずわたしは、
「どうして泣いているの。」と聞きました。すると、うさぎの貯金箱は、「いたずらをしすぎて、まほう使いに、貯金箱にされてしまったの。クリスマスまでにだれかが貯金箱をいっぱいにしてくれないと、もとにもどれないし、割れてしまうの。」
「クリスマスまでってあと一ヶ月じゃない。」と、わたしは言いました。でも、うさぎがあんまりかわいそうで、貯金をしてあげるやくそくをしました。
その日からわたしは、いっしょうけんめいおこづかいをためはじめました。いつもなら、おかしなどにすぐ使ってしまうのに、がんばって使わないようにして、すぐ貯金箱に入れました。
そして、とうとうクリスマスの日。あとコイン一枚で貯金箱がいっぱいになりそうでした。わたしはおつかいのおだちんに、おつりをもらえることになりました。けれども、帰り道、おばあさんが電話をかけられずにこまっているのを見かけました。
「どうしたんですか。」と、おばあさんに声をかけると、おばあさんは、「急いで電話をかけなくちゃいけないんだ。でも、さいふをなくしてしまって。」
わたしはお金をあげてしまいました。でも、わたしはすぐにうさぎの貯金箱のことを思い出して、急いで帰りました。そして、なんとかコインを一つさがさなくてはと、必死になりました。でも、どこにもありません。そして、とうとう六時の鐘がなったと同時に、「パリーン」と音がしました。わたしは真っ青になりました。すると、後ろから、
「えりちゃん。」と声をかけられました。ふりむくと、そこには、さっきお金をあげたおばあさんが立っていました。 そして、おばあさんの後ろから、あのうさぎがあらわれたのです。
「こわれたんじゃなかったの。」すると、おばあさんは、「ごめんよ、ためすような事をして。でも、あんたのやさしい気もちはよくつたわってきたよ。あの十円玉は貯金箱に入れといたよ。」
そして、うさぎも、「えりちゃん、ありがとう。えりちゃんのことはわすれないよ。元気でね。」
そして、おばあさんとうさぎはきりにつつまれて、消えてしまいました。わたしは、うれしいようなさみしいような気もちで、しばらくボーッとしていました。
その日の夕がた、家でクリスマスをしました。おとうさんとおかあさんからのプレゼントを開けると、本物のうさぎが入っていました。もちろんこのうさぎはしゃべれないけれど、わたしはいつの日か、このうさぎがあのうさぎの貯金箱のようにしゃべりだすんじゃないかとドキドキしています。
小学生の作文2
大失敗――鎌田新平くん(小5)
ぼくは、お父さんの床屋の手伝いをしていた時に、この大失敗をしてしまった。ある日、お父さんが買い物に行っている間に、とてもお金持ちに見える男の子とその召し使いがお店に入ってきた。ぼくがびっくりしていると、その召し使いに、「あなたは、髪を切れますか?」と聞かれた。本当はまだそんなことできないけれど、断ったらかっこ悪いので、「はい。できます」と答えてしまった。すると、召し使いが男の子をぼくにあずけて、どこかに行ってしまった。
ぼくは、どうすればいいか全くわからなかった。でも、やるしかなかったから、その男の子に、「どういうヘアースタイルにしてほしいの?」と聞いたら、「バリカンで、丸がりにしてほしい」と言ったので、言われた通りに、たなからバリカンを取り出してとにかく丸がりにしてみることにした。でも、その子の髪の毛はものすごく立派に飾られていたから、どこから手をつけていいのかわからなかった。だから、適当にまん中をかったら、なんとそのバリカンの切れ味はものすごく、まん中の髪の毛を全部切り落としてしまった。ぼくは、ヤバイぞ!
どうしよう……と、心の中で叫んでいた。でも、まん中だけ髪の毛がないのはおかしかったから、思い切って全部かってしまった。
だから、あわててそこに置いてあったぼうしをかぶせていたら、ちょうどそこに召し使いがきて、そのぼうやを家に連れて帰った。ぼくは、ものすごく安心した。もう全てオーケーだと思いこんでしまった。
でも、ぼくの考えは甘かった。数十分後に、かんかんに怒ったその男の子の家の人たちがやってきて、さんざん怒られた後、お母さんとお父さんにもさらに二時間、説教された。
そして、なんとそのことがマスコミに取り上げられて世界中に知れ渡ってしまい、世界中だれも床屋を信用しなくなった。でも、ある科学者が特殊な薬を開発したので、人類滅亡はまぬがれた。セーフ!
エッセイ
走る
動物が「走る」のは獲物を追う時か、敵から逃れるときである。もちろんそれだけではない。子犬がじゃれあって、追っかけっこをする時にように、楽しい、そして走らずにいられないといった「走る」もある。
私は、小学生のころから走るのは嫌いだったように思う。それはきっと駆け足が遅いため、運動会がくるたびに悔しい思いをし、やがて走ることが嫌いになっていたのだと思う。しかし昨年の夏、うれしくて、楽しくて、いてもたってもいられずに無邪気に走り回ったことがある。私は、ちょっとした不注意から交通事故にあい、足の骨を折って入院生活をしていた。けがが完治し、自由に動けるようになって、友人と海岸に遊びに行ったときのことだ。私は砂浜を走っていた。ただうれしかった、ただ楽しかった。それで走り回ったのだ。そのときの感動はいまでもすぐによみがえる。
人間は何かを求めて生きていく。そして何かから逃れるために悩む。それはすべて走っているということであろう。しかし、ただ走りたい、走らずにいられない、というときもある。あの時の私も、気づいていたら走っていたのだ。長い入院生活は、不自由そのものであった。人間は不自由な環境に置かれて、はじめて自由の尊さを知るとよく言われるが、私はそのことを実感した。あの時の走りは、自由を感じ、それを表現している私だったのだ。
私は自由でありたい。そして自由を求めていたい。あのときのような走りをどれだけできるかが、これからの私の人生で、一番大切なことなのだ。
小論文1
問題:小学校から英語教育を取り入れようという動きがあります。それについて、あなたはどう考えますか。800字以内で論じなさい。
《模範解答》
英語教育を小学校から取り入れるところが増えている。公立小学校でも、英語導入が検討されていると聞く。では、英語を小学校から教育するべきだろうか。
確かに、これからの社会では英語の習得が不可欠だ。他の言語では、外国の人々と十分な交流ができない。現在では英語によって情報を手に入れ、自分の意思を伝えることが大きな意味を持つ。日本人がシンガポールの人々ほどの英語力があれば、おそらくもっと世界に向けて仕事ができるだろう。そして、小学校から英語教育を取り入れれば、日本人の英語力は飛躍的に増す可能性がある。だが、健全な社会を作るためには、これは好ましいことではない。
人間は母語で考える。そして、母語によって自分の価値観を明確にする。すなわち、日本人は日本語で考え、日本語の教育を受けることによって、日本語の価値観を受け入れて日本文化を持った日本人として育っていく。ところが、英語を小学校から教育すると、英語の価値観が入り込み、母語が曖昧になり、日本人が日本語の価値観を持てなくなる。自分という存在があやふやになってしまう。自分の確固とした価値観が持てなくなる。それでは、しっかりとした自分を持てない、あやふやな人間ばかりの社会になってしまう。現在、英語力どころか、日本語力の低下が問題になっている。日本語を読めない子ども、書けない子どもが多い。そのために、しっかりと自分で考えることのできない子どもが増えているのである。それゆえ、英語教育をするよりも、日本人としての文化を持つために、しっかりと国語教育をすることのほうが大事である。
以上述べたとおり、私は英語を小学校から教育することには反対だ。それよりは、日本語の力と日本文化の価値観をしっかりと身につけることのほうが大事だと私は考える。
小論文2
問題:次の文章を読んで、日本社会のあり方について800字以内であなたの意見をまとめなさい。
一度でも外国に行ったことのある人間が日本社会に戻って感じるのは、日本社会の騒音の大きさではなかろうか。
日本の駅では発車ベルをはじめ、行き先や次の駅、そして「白線の内側・・・・・・。降りる人が先・・・・・・」といった、乗降客を子ども扱いする放送がひっきりなしにある。電車に乗ったら乗ったで、また様々な放送。乗客のほとんどが、電車乗りのプロとでも言うべきサラリーマンばかりのはずの朝夕の超満員の通勤電車でも、「次の駅は・・・・・・、出口は右側で・・・・・・」とアナウンスする。欧米では、電車が故障したときか、大きな遅れが生じたときにしか、そのようなアナウンスはない。フランスやイタリアでは、日本では急行列車に乗ると必ず耳にする「次の駅は・・・・・・です」「あと三分で・・・・・・駅に到着です」というアナウンスさえないことが多い。
電車だけでなく、道を通れば店から外にまで大きな音の音楽が鳴り、大きな駅の交差点でも大スクリーンから音楽が聞こえてくる。あちこちで騒音が鳴り、多くの人がそれを気にしている様子もない。
もちろん、欧米のようにアナウンスがほとんどないというのも困りものだ。だが、日本のように何でもかんでもアナウンスすればよいというものでもあるまい。
音は、町の静寂を壊す。人間のゆったりした心を邪魔する。そもそも、大きな音やいらないおせっかいのアナウンスで、ほかの人の静寂を邪魔する権利など、誰にもないはずだ。
日本ももっと成熟して、個人個人のプライバシー空間を尊重するようになってほしいものだ。そうなれば、もっと日本社会全体が暮らしやすくなると思うのだが、どうだろう。
《模範解答》
課題文は、日本の電車のアナウンスや道路で聞こえる音楽などを例にとって、日本の騒音のひどさについて語っている。そして、「日本ももっと成熟して、個人個人のプライバシー空間を尊重するべきだ」という考えを示している。では、日本の過剰な騒音を改めるべきなのだろうか。
確かに、騒音が大きいということは、ある意味で日本社会が寛容だということである。欧米で日本のような騒音を出すと、多くの人が激しいクレームをつけるというが、日本では多くの人が「泣き寝入り」をすることも多い。また、多少の音に対しても騒音と思わない傾向が強い。そして、「お互い様」と考えて許しあう。そうしたことは、言い換えれば、日本社会が寛容だということだ。このような社会であるからこそ、欧米のような激しい自己主張が起こらず、平和でいられるのである。しかし、今の状況は、あまりにはなはだしいといえるだろう。
日本社会で騒音が多いのは、日本人の集団主義が背景にある。日本人は個人の意思を軽視し、甘えあい、干渉しあい、他人のプライバシーを軽視する。そのため、個人のプライバシー空間を重視しない。音が個人の快適な時空間を邪魔したとは考えない。そもそも、しっかりした自我を持っていないからである。他人を邪魔しても、自分が邪魔されても、それほど気にならない。だが、そのような社会は、これからの日本にはふさわしくない。これからは、もっと個人の人格を尊重し、個人の多様な価値観を大事にする考え方が必要だ。そうであってこそ、自分の責任で行動し、他人の権利を尊重する民主的な社会が根づくのである。
以上述べたとおり、私は、騒音を減らし、個人のプライバシーを尊重する社会にしてこそ、民主主義の定着する社会になると考える。
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