TOP
プロフィール
主な活動
  ―著書目録
  ―アフリカ文学
  ―その他
文章教育
  ―教育論
  ―模範解答
  ―白藍塾
ご依頼
 
 


これからの作文教育とは……

  現在の作文教育は、子どもたちから、書くことの楽しさを奪い、考える能力を奪い、作文を道徳的で幼稚で退屈な文章を書く行為にしています。
  従来の作文をつまらなくしているのは、「ありのままに書け」「自分の言葉で書け」という、作文を生活指導の手段とする考え方です。
  まず、「ありのままに書け」という点から見てみましょう。
  ありのままに書く、それがいかに不可能であるかは言うまでもないはずです。書く、ということは、現実の一部を切り取り、脚色することです。もし、ありのままに書いていたら、朝、起きてから寝るまで、何から何までも書かなくてはいけなくなります。しかも、自分の行為ばかりか、頭のなかをよぎったこと、社会情勢などなど、際限なく書くことが出てきます。
  書くということは、現実をどの方向から見るか、どの現実を選択して、どの現実を切り捨てるかを定めることです。そして、ある特定の現実を選ぶということは、それを誇張し、おもしろくする、ということでもあります。つまり、書くからには、必ず、主観によって現実をゆがめなくてはなりません。現実にメリハリを付けなくてはいけません。そうするからには、それは脚色して、おもしろくしたり、おかしくしたり、ということです。
  つまり、厳密な意味で「ありのまま」に、「感じていることを正直に書く」ことなどできるはずがないのです。
ものを書くとき、私たちは、現実をどのように料理するか無意識的に考えます。それは子どもであっても同じはずです。おもしろおかしく書こうか、それとも、まじめに書こうか、ほろりとさせようか、というふうに考えるのです。
  「ありのまま」と限定することで、想像力を羽ばたかせて、様々な空想をすることができなくなります。あくまでも、書く内容が「日常生活」になってしまって、そこから一歩も外にでません。子どもたちは、ふつう、学校に通い、家でテレビを見て、友達と遊ぶ、という生活を送っています。そこには、書きたくなるような事件はないはずです。もちろん、そうした日常の自分を見つめるのも大事ですが、自発的に書きたくなるというのが、作文の理想なのですから、「ありのまま」では、子どもたちの書きたい意欲を誘い出すことは困難になってしまいます。
  子どもたちは自由な想像力を持っています。SF的な空想力を持っています。アニメやテレビゲーム、テレビドラマなどの影響で、創造意欲を持っています。それを抑圧してしまうのでなく、もっと自由に、生活以外の場にも書く内容を広げるほうが、子どもたちは書きたいという意欲を持つことになるのではないでしょうか。
  「ありのままに書け」と教えることの弊害がもう一つあります。どうしても思想調査になってしまうことです。書かせるほうにそんなつもりはなくても、子どもにしてみると、そうはいきません。これまでの作文教育は人間教育を兼ねているのです。教育の一貫としての作文です。ですから、きれいごとを書くのです。
  本当は、「遠足なんて、ちっともおもしろくなかった」「大嫌いなAちゃんと同じグループだったんで、いじめたくなった」などと思っているかもしれません。ですが、そんなことは書きません。きれいごとをまとめて、道徳的な文章にしてしまいます。
  子どもたちは、「道徳的なきれいごとを書くのが作文だ」と信じているフシがあります。ですから、自由に想像できません。鋭く社会や人間を見ることができません。きれいごとを書いて満足してしまいます。
   もう一つの、これまでの作文教育の「自分の言葉で書け」という原則も、大いに問題があります。
  自分の言葉で書け、というのは、「子どもたちが日常使用している、使い慣れたことばを使って、すなおにそのときどきに思ったり、考えたり、感じとったときに心に浮かんできた言葉で書くこと」と意味でしょう。
  生活実感のある言葉で自分の周囲を見直す、という意図は、もちろん、わからないでもありません。それが生活指導に役立つことでしょう。ですが、書くということは、それにふさわしい表現を探し、言葉を工夫するという行為でもあるはずです。文学作品に限りません。手紙でも日記でも、その時に感じたことを、どのような言葉に結晶させるかを考えているはずです。「自分の言葉で書け」と教えてしまいますと、表現の工夫という、文章を書く上でのもっとも大事な欲求を否定してしまうことになります。文章を書く上で、レトリック、つまり文体のテクニックを工夫するのは大きな楽しみです。比喩を使ってみる、誇張表現を使ってみる、くだけた表現を使ってみる、他人の口真似をしてみる・・・そうした文章の遊びこそが、作文の楽しみなのです。それを取り上げては、子どもたちが作文嫌いになるのは目に見えています。
  友達に手紙を書くのが好きな子どもはたくさんいます。特に、女の子は、あれこれ手紙に書いて楽しんでいます。ダジャレを使ったり、流行語を使ったり、イラストを入れたりして手紙を書くのです。ところが、「自分の言葉で書け」という指導は、そのような文章を許しません。すると、文章を書くのが好きな子どもまでも、作文嫌いにしてしまいます。
  なぜ、レトリックを不純なものとして目の敵にするのでしょう。レトリックというのは、心にもないことを上手に表現するための単なる言葉の綾ではありません。単なる遊びでも、嘘でもありません。言葉という粘土を使って、いろいろと形を試みては日本語の秘密を探るテクニックなのです。文章表現のテクニックを使うことで、表現の幅が出ます。
  同じ、「私は悲しかった」と言うにしても、「雨のなかで濡れたままでいる野良犬のように悲しかった」「ひとりぼっちで知らない町に置き去りにされたように悲しかった」「悲しみという言葉が胸にずしんと響くような気がした」・・・などと言うほうがリアリティがありますし、個性的な表現になります。そして、そうした訓練を積むことで、日本語の様々な財産を知ることになるのです。
   私は作文はおもしろくなくてはいけないと考えています。言ってみれば、作文は一種のエンターテイメントなのです。
   作文が大嫌いな子どもがたくさんいます。むしろ、好きだという人のほうが稀でしょう。では、なぜ、大嫌いなのでしょう。きっと、作文をむりやり書かされる「勉強」と思っているためでしょう。そして、教育としての作文を無理やり書かされてきたからに違いありません。
   だけど、作文はそんなものではないのです。現代っ子も、きっとテレビやテレビゲームは好きでしょう。ハラハラ、ドキドキしてドラマを見たり、笑い転げてバラエティ番組を見たり、ワクワクしてテレビゲームをしたりしていることでしょう。
  作文も同じようなものとして、私は捉えたいと常々思っています。作文も、ドラマやバラエティ番組やテレビゲームと同じようにおもしろいことを書くものなのです。そうしたおもしろいものを、テレビやゲームを受け取って、楽しむだけでなく、自分で創作し、自分で工夫するのが、作文なのです。
   作文を生活教育としてではなく、創造行為として、そして、遊び半分にできる表現技術の練習として、頭の体操として考えるべきなのです。したがって、まず、作文を書くときには、自分が楽しむことを考えなくてはいけません。文章を工夫して、ストーリーを展開してみます。もちろん、本当のことを書く必要はありません。嘘でもかまいません。テレビの真似をするのもいいでしょう。ただし、下手に真似をすると、つまらなくなるので、うまく真似しなくてはいけません。
   それを続けることによって、表現の幅ができます。社会を見る目ができます。論理性が身につきます。つまりは、国語が得意になって、論理力、思考力が身につくのです。